考えるな!からだに聞け!

序にかえて  ー本書よりー

 

自転車を漕ぐのに足の力はいらない。

当然、太腿が太くなる筈はない。

 

競輪S級の選手が、私の教室に来たのは2年前になる。

自分のレベルを上げたいという理由だ。

 

自転車は全身の連動で動かす。

特に胸骨を使い骨盤から膝、そして足裏へと連動させれば良いのだ。

選手は、その言葉に頷き即練習を開始した。

太腿でペダルを漕ぐのではないから、その選手の足は陸上の長距離選手のように細い。

しかし、速くなった。

しかも、身体が疲れない。

如何に力まないかが、全身がスムーズに動く条件だからである。

1レースが終わった直後でも、もう1レース行ける余裕があるという。

 

 

「全身を使う」という言葉は、どこにでも転がっている。

しかし、どんなスポーツであっても、ダンスや武道であっても、無自覚に全身が動いていても、自覚的に使っている人、使えている人は少ない。

それは全身を使うよりも、例えば腕だけ、足だけを鍛える方が楽だからだ。

 

しかし、疲労や、力を出すということで言えば、腕だけで100の力を出すよりも、10の力を10箇所から出す方が疲れないし力も出る。それが全身を使うということの側面である。

 

使うというのは、自分が完全に身体に対して意識的にということである。

当然、使う為には身体を実感できなければならない。

 

しかし、ここで問題があることに気付いただろうか。

 

理解する、納得することと、身体運動は全く別回路である。

それこそ、「畳の上の水練」という故事そのもののことだ。

いくら北島康介選手の動きを理解しても、体操の内村選手の技を理解してもできることはない。

もちろん、直接当人から説明を受け、納得しても出来る筈もない。

 

それは、彼らが世界一流の選手だからだと思うだろうがそうではない。

理解や納得と運動とは全く別の回路だということだ。

逆に、高度な身体操作ほど、理解する程に出来なくなるのだ。

 

“人”とは、基本的にそういった性質を持っているが故に、上達や成長する人としない人とに別れるのである。

 

したがって、そういった“人”の性質を上手に使った人が、上達や成長するということだ。

 

であれば、先程の競輪選手は理解では無く何だったのか?

それは「みる」ということと「感じる」という2点の作業をしていたのだ。

 

いわゆる“見る”の場合は、「見る=判断(理解)」ということになり、自分自身の判断の出来る範疇でしか“見えていない”のである。

したがって、情報は切り抜かれているのだ。

それは日常でも、仕事でも見落としている事があったり、熟練者には見えているが、経験の浅い人には見えていない、という様なことを色々と体験している筈である。

 

しかし、カメラのレンズの様に写した場合、アナログ写真のようにレンズに写った全ての情報を取り込むということで、情報量が全く違うのである。

 

動きの飲み込みの早い人や、準備にやたらと時間をかける人は、この「みる」を無意識的に働かせているのだ。

それが、本当の意味でのイメージを使っているということである。

運動センスが良い人と言うのは全てこれなのだ。

 

逆に言うと、センスの悪い人というのは、やるべきことのイメージを持っていないのだ。

つまり、自分はどこへ行くのかが定かではなく、ただ目の前の動きを消化しているに過ぎないということである。

 

やるべきこと、つまり、自分はどこへ行くべきかのイメージを持っていないのは、言葉としては持っているかもしれないし、運動を理解しているのかもしれない。

しかし、理解することと運動は全く別の回路なのである。

 

その意味で、私は「考えるな」と言う。

それは「見る」という自分という身体が持つ能力を妨げるからである。

 

人は、生まれた瞬間から「見る」能力が最大限に活かされ成長する。

寝返りを打つ赤ん坊の時代から、ハイハイをし移動するようになる。

このハイハイを研究した学者が、どうしてハイハイの上手下手、あるいは多種多様なスタイルがあるのかと疑問を持ち研究をした。

 

そこには、まさにこの「見る」という能力があることを証明した結果になった。

ハイハイの多種多様性は、周囲にハイハイをする者がいないから、つまり、見本や手本が無いから、「動きたい」という欲求、「好奇心」という欲求そのままが現れているからなのである。

その動きこそ「クセの入り口」なのだ。

 

 

この本は、武道の本である。

しかし、武道の形や技の解説書ではない。

剣の達人伊藤一刀斎は、身体に具わる機能を十分に働かせること、それが剣の妙、極意だと記た。

その言葉を紐解いていった結果、本文にある、全身の連動であったり、考えるな、であったり、感じるである。

 

そこから言えば、西洋的な身体論ではない。

もちろん、東洋的な身体論でもない。

純日本の身体論である。

 

私は、この身体論をヨーロッパ各地で指導している。

そして、まさかの西洋文化そのものの、クラシック・バレエの世界を始めとする、ダンスの世界からも招聘がかかり、毎年指導に行っている。

 

私は武道史に名を残す達人は、自然科学の科学者だったと位置づけている。

何故なら、「人」という自然を自然物として扱っているからである。

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