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■2005/03/10 (木) フォーサイスカンパニー1

 

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フランクフルト飛行場から、フォーサイスカンパニーの安藤さんに電話を入れた。

2週間前に「先生、フランクフルトに来れますか」と電話を貰って、今バックが出てくるのを待っている。地球が狭いのか、動きが早いのか、そのどちらもだろうが、武道という目的ではなく私の武道を持って、ウイリアム・フォーサイスの待つオペラ劇場に向かうためにここにいる。

 

「日野さん、日本からわざわざありがとう、非常にエキサイティングです」「もちろん、私も凄く興奮しています。あなた達と会えて、これから持つ時間を本当に幸せに思います。」

フォーサイスが「ビリーと呼んでください」と長身の身体をかがめて私に言った。

そのトーンは優しくまろやかだった。

 

ダンサー達は、来月に控えた公演を前にリハーサルに汗を流していた。

フォーサイスはダンサー達の動きを見て、色々と書き留めている。

「書道ですね…、彼らを観察し後日指摘したり、振りをつけたりするのです」ビリーのやり方を説明してくれた。

しかしダンサー達は見事に動く。

まるで本当にコンタクトしているかのごとく、自由自在に動き回るかの如く動く。

ビリーが一人の女性ダンサーに注文をつけた。

首の使い方、頭の使い方だ。

ダンサーはビリーの指摘を理解しそのように動く。

しかし、ビリーは駄目を出す。

それをよく観察していると、ビリーは自身でどう動いているのかを知らないようだった。

つまり、ビリー自身の実感と実際とがずれているということだ。

だから、ビリーがやろうとしていることを説明する。

すると、その指示と実際とに食い違いが生じる。

 

そのやりとりを見ていて、ビリーに「あなたのやっている事は、頭の後頭部の頭頂を意識しているのではないですか、そして、その事を伝えたいのでは…。そこが伝わっていないからダンサーは形を追いかけるようになっているのではないですか」

「そうです、私は形を指示しているのではなく、自分を聴くということを指示したいのです」

もちろん、ビリーの言葉は英語であり日本語ではない。

したがって、ここに溝があるのは百も承知だが、誤解の幅はあるにせよ、「自分を聴く」というのは、私の言う「実感を辿れ」とリンクするように直感した。

つまり、私の出る幕はここにあると確信したという事だ。

■2005/03/10 (木) フォーサイスカンパニー2

 

フォーサイスは、本当に素晴らしい。

声のトーン、表情、まろやかさ、物腰、全部が本当に素晴らしい!

対立してこない、対立しようともしない、リハーサルの説明をしながら日本茶を出してくれた。

まるで、旧知の友のようだ。

なるほど、世界で、そして、そのジャンルを作った人だけの事はある。

だから、フォーサイスカンパニーのダンサー達も、誰も彼も素晴らしい。

フォーサイスと並んでいすに座り、世界屈指のダンサー達の動きを見せて貰った。

 

初日が終わった時、私の周りには興奮と感動の拍手が満載だった。

フォーサイスが、「日野さん、他のダンサー達と即興で踊ってくれないか」

とリクエストをかけてきた。

即興で、ダンサー達と踊った。

ダンサー達が目を丸くして私の動きに注目し、「次は私」とリクエストがかかった。

「皆さん、今日新しいメンバーが加わりました、日野さんはリハーサルなしで、そのまま舞台に出てください」とフォーサイス。

​大喝采が起こった。

何度も、何度も、同じ動き(連動ーてんし系)をリクエストしてくる、ダンサー達がこれでよいか、と代わる代わるくる、フォーサイスがダンサー達をけしかける。

ダンサー4人がかりで、両手と片足を持たせ、ねじれだけで倒したら、当たり前の事だけど、全員驚嘆の声。

一時間の休憩を挟んで、後半にはいると完全に私に教わりたい、私の動きを見ていたいというファンの目に変わっていた。

フォーサイスはどんどん製作者の目に変わっていった。

私を舞台にたたせたいようだ。

最後に安藤さんが私にコンタクトし、それに連れて私が動いた。

終わった時、拍手の嵐だった。

 

金曜日、彼の自宅に招待されている。

とにかく、完全に日野理論はカンパニーを制圧した、というよりも、彼らはまるで日野理論を待っていたようだった。

フォーサイスは「私の身体は岩のようだ、一体今まで何をしてきたのか、身体を何一つ感じていなかった」と私に興奮しながら語ってくれた。

世界のトップは、本当にトップだ。

同時に、私自身の探求してきた事が何一つ間違っていなかった事をここに証明された。

3月9日記念すべき日になった。

 

今日のワークショップは、背骨の連動だ。

昨日も少ししたが、中途半端だったので、仕上げて上げようと思っている。

カンパニーのダンサー達に囲まれて、そして、フォーサイスがいる。

そして、私が、日本の武道家が教えている。

本当に奇跡だ。

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「表現ということ」

2013年11月25日

フォーサイスカンパニーに招聘されて2年目の時(2006年)、表現という事についてのレクチャーをしていた。
丁度その時、カンパニーを退団したダンサーが、這い這いが出来る程度になった子供を連れて、私のワークを見学に来ていた。
私が話をしている時、その幼児が這い這いをして、スタジオを動き回っていた。
お母さんの膝の上に退屈したのだ。
ダンサー達は、温かい目でその幼児の姿を追った。

 

すかさず私は「今、皆は幼児を目で追いかけたやろ。例えば、皆が舞台でダンスをしていたとするやろ、その時、こんな幼児が舞台を横切ったら、誰も皆のダンスを見ずに幼児を見る。何でやと思う?ここに表現や表出の原点があるんやで」と言った。
皆はキョトンとしていた。


 

それはそうだ。

カンパニーのダンサー達は、例外なくエリート達だ。
3歳や5歳くらいから、バレエを習い、その専門の学校に行き、優等生で卒業し、名門のバレエ団でプリマやプリンシパル、またはそれに準じる人達だ。
その活躍に飽き足らず、新しいことを求めて、このフォーサイスカンパニーに入団しているのだから。
つまり、表現のことなら任せ、という専門家の筈だという事だ。
しかし、私の話した基本的なことは、誰も知らないし習っていない。
先生が言ったことや習ったことを鵜呑みにしているから、疑問すら持った事が無いのだ。
自分がダンスを踊っていれば、それだけで成立すると信じて疑わないということになる。
関係性という視点には、気付いていないということだ。
だからキョトンとしてしまったのだ。

どうして幼児の姿に目を奪われたのか。
それは単純明快だ。
幼児は
一つの意思しか持っていないからだ。
つまり、幼児は何かに興味を持った、だから、その方向に動いたのだ。
「皆は、色々と頭の中が騒がしいだろう、『ああしよう、こうしよう等と』それが身体を消す役目をしているのだ。だから、いくら演出や舞台構成が立体的でも、観客からは平面的にしか見えず、ダイナミズムの無い舞台になるんだ」
ダンサー達は「そうか」と、何度も何度も頷いていた。

 

 

もちろん、頷いたからといって、「一つの意思」が実現するものではない。
それ程難しいものだ。
その難しさは、「一つの意思に
なろう」と思うからだ。
そうではなく、自分に与えられた役目そのものになれば良いだけなのだ。
ワークショップでも教室でも「やったらええだけや」が私の口癖だ。
その意味では、皆練習不足なのだ。
段取りを追いかけているレベルでは話にならない。
そこでやるべきことをやれるように、そして、やるべきことすら忘れてしまえるように。
そうすると、舞台で身体が際立ってくるのだ。